何者にもなれないKekeの隠遁ライフ

文化、歴史、アート、ファッション。それを問うか問わないか。

『ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代』の感想

今となっては縹緲と記憶の断片しかないが、国立西洋美術館であったル・コルビュジエの展示の感想を、当時のメモをもとに、遑の許す限り感想を書き綴ろうと思う。

彼の試みが広く膾炙されるピュリズム中期までの作品は、手に収まりそうなコンパクトさと同時に、迸る多義的な空間を感じる。表層的にも鮮明な色使いがある故に立体感を感じた。ピュリズム後期、またはそれ以後の作品は、透明感ある重なり合いが絵画にも建築にも見られて、「調和」という言葉が似合いそう。キュビズム時代の、一見厳つい印象はなくなったように見え、第一次世界大戦後の落ち着きなのかと推測する。

愚昧でもなければエンジニアはモダニズムに惹かれると思う。機械的美学を社会生活に提示することの循環で、絶えず人間に還元し続けることが工学の一つと面白いところかなと思う。浅学菲才であるが、科学技術を肯定し、それらを社会実装するのが自分の一つの射幸心の形であって、また誇らしいのと思う故に、もっと求道者で無ければならない。最終的には資本主義で俯瞰的に昏い気持ちにもなる、本当は楽がしたい。

作品数も多く、また建物自体もル・コルビュジェの設計であり、インスタレーションとして展示内外が体験の連続性を持っている。豊富な近代美術の巨匠の絵画と彫刻が、モダニズム建築の先駆者ル・コルビュジェの建築と融合している機会は稀有であり、間違いなく瞠目に値した。雅俗混淆な起臥を今一度、見つめ直したい、そんな艶かしい想いにしてくれた。

朝活男の崩壊話

「ことばは沈黙に 、光は闇に 、生は死の中にこそあるものなれ 。飛翔せるタカの 、虚空にこそ輝ける如くに 」( アーシュラ・K・グウィン『ゲド戦記 影との戦い』中の『エアの創造』)

新たなスタートを切る人達の、奥底の不安や懶さを憫笑するように冷たく昏かった昨日までの雨は跡形は無い。 今日は凛とした朝だ。

「君は本当によく人を知ってるね」と僕は雨に言う。

今朝は6時前に目が覚めた。 夢は見てない気がする。瑞夢で無かろうと熟睡できることはきっと喜ばしいことなんだろうけど、少しだけ寂しい。昨日の寝るまでの自分と、今の自分に空白の時間が空いてしまって、その間の見知らぬ自分が訝しく感じる。至る所でしか連続性はないのだ。

続きを読む

友達を作れない新社会人

私が好きだったのはあそこのあかるさだ。とことん人工的なあのあかるさ、遠慮なく白く、こうこうとしたあかり。夜中でもたくさんひとがいて、みんな帰りたくないひとびとだということ。(江國香織『泣く大人』)

4月1日、初出社の日。

煦煦たる陽とは対照的に、私の心は嘯き、じんまりとしている。

この日本では、社会に出るという言葉は、一般的に、会社に入社するということを意味している。 「あぁ、今までは社会ではないの」という根本的な誤謬を突くような子供じみた真似は置いといて、とにかく会社に入った人のことを社会人と呼ぶらしい。つまり、私は社会人になった。

私にとって最初の苦節は友達作りの場であった。しかも、それは「OB・OG交流」、「チームビルディング」、「花見会」というように化けて何回もやってきた。私はこれまで「陽キャ」と言われるような陽の当たるような存在ではなく、常に陽の当たる人のそばにいた陰であった。逆光故に、誰も見向きもしない存在である。だからこの場のような、半ば強制的に「友達を作れ」というような機会は性に合わない。

そもそも友達ってどう作るの。

続きを読む